事実と虚構、日記を読んで思ったこと

小学生の頃の友達が、あれぐらいの年頃にはありがちなのかもしれないけど、よく嘘をつく子で、学校で告白されたとか他愛もない嘘から、おじいさまの家がお城だとか、いったい誰が得をするのか分からない嘘まで、会うたびに新しい作り話をしていました。
初めのうちはみんな「そうなんだー」と感心して聞いてたのですが、たくさん嘘を積み重ねていくうちに、辻褄が合わなくなってきて、敏感な年頃ですから「あの子ちょっと変じゃない?」とか言いながら離れていって、わたしも他に趣味の合う友達ができたこともあって、彼女に邪険にするようになりました。大人になった今なら「(そんな嘘をつかなくたって)大丈夫だよ、あなたの話を聞くよ」と言ってあげられるのかもしれないけど、子どもの世界は残酷です。
現実は生きにくい。
わたしは精神を病んで現実の認識ができなくなって久しいですが、普通の人でも一時的に「現実逃避」することはあるでしょう。普通の人と嘘つきな彼女との違いは、虚構の世界を自分の胸に秘めておくか、他人と共有するかの違いだけじゃないかと思います。
たとえば、わたしが別名義で書いていることは事実です。でも同時にフィクションでもあります。好きなこと・楽しかったことは写真つきで書く、傷つけられたり不愉快な思いをしたことはあまり書かない。日記の中でわたしはサブカル好きで外出好きでちょっと鈍感な物欲乙女(乙女とか気恥ずかしいですが、奥歯さんに倣って)です。日記を読み返すうちに、わたしは楽しい出来事だけ追体験して、嫌な出来事は忘れていきます。読者の中でも、日記が更新されるたびにN像が確立されていったようです。
こうして事実と虚構の境界ははてしなくあいまいになり、フィクションのほうが力を持ちます。しかし、その物語はもともと彼女の見ている夢なのです。他人に事実関係を暴き立てて、彼女の築いた世界を壊す権利はあるのでしょうか。彼女が「これはノンフィクションです」と宣言し、わたしたちがそれを信じるかぎり、物語は事実として有効であり続けるのではないでしょうか。
…ということをある方の日記を見ていて思いました。